決闘の朝オスカルは…?

マリ−・アントワネットは愛するフェルゼンがスウェーデンに帰国して以来、ベルサイユにいない淋しさを紛らすかのように贅沢と我がままがエスカレートする。
そんな、王妃の行為を目の当たりにしていたオスカルは、フランス国民の心が王妃から離れる事を心配する。

しかし、マリ−・アントワネットの浪費癖は止まらず、半月で礼服を18着と夜会服を38着作ったりした。

またマリ−・アントワネットは、祖国オーストリアの母マリア・テレジアの元へ自分の肖像画を送った。
しかし、娘のマリーの肖像画を見た母テレジアは失望する。

「これは、フランス王妃の肖像画ではなくて、派手に着飾った女優の絵です!」

フランス王妃として、国の事を考えていない娘の身を案じながらも、娘の肖像画をフランスへと送り返すよう申し付けた。

一方、パリの下町でいたいけな貧しい男児を虫けらのように扱い撃ち殺したド・ゲメネ公爵を許せないでいたオスカルは、宮廷内でド・ゲメネ公爵と対立して、怒りをぶつける。

そんなオスカルに対して、ド・ゲメネ公は後日、早朝にド・ファルジュ寺院の裏でピストルでの決闘を申し込んだ。
そして、2人は対決する事になった。

実はファルジュ寺院の高方にある窓には、ステンドガラスのズレている箇所があった。

王妃マリ−・アントワネット就きのオスカルに対して、ファルジュ寺院のズレたステンドガラスと朝日を利用して、オスカルの目をくらませて負けさせる策略を企て、ド・ゲメネ公爵に入れ知恵していた人物がいた。
その人物は、反国王派のルイ・フィリップ・ジョセフ・ド・オルレアン公爵だった。



決闘前夜にオスカルは、尊い命のやり取りをしなければならない事に恐れを感じて眠れずにいた。

そんなオスカルは、7才の当時にアンドレと共に樫の木の下に宝物を埋めた事を回想していた。

鉛のコマと赤いナイフと熊の人形。

オスカルは、『万が一の事があった時には、その宝物をアンドレに譲る』と言っていた。

眠れないままに時間が過ぎて、対決すべき日の早朝の朝日は、昇り始めていた…。





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